午前中は、ワークとシェアの時間
そこで、自分自身の体験を言葉にしてシェアすると、
言葉にできるところと、言葉にならないところ、両方を感じる。
そして、言葉になってもならなくても、自分の中にある、という感覚で満たされていることに、気づく。
言葉にできるところを言葉にすると、
2日目の「なべ底」の体験から、自分の中に、「いつ何時不意打ちされるか、わからないから、構えておくこと」と神経を張り巡らして、生きていた自分に気づき、
本当に、頑張っていた自分を感じていて
いま、その緊張と頑張りから解放されて、背中が柔らかく呼吸している自分を感じている。
もし、この感覚を、思い込み(ビリーフ)の言葉にすると、
【自分が構えていないと、怖いことに対応できない】
【自分を守らないと、相手が蹴落とす。】
→ なぜなら、死ぬから
という感じで、ビリーフの言葉より、体感の「死ぬ」がからだに、刻み込まれていたのに、気づけた。
そして、もう一つ、
その「なべ底」は、僕を癒そうとはしていない。
ただ、ある。
僕を、包み込もうとしていない。
ただ、ある。
でも、その存在に癒される。
包み込んでくれる。
そう、カウンセラーのあり方(Being)につながる感覚、癒そうとするのでなく、ただ、居る、ただ、自分が存在して、共にいる、それを体感したと感じると、目から涙が出てきた。